きっかけ:長靴を履こうとする娘への一言
朝、ご飯を食べて家を出ようとした時のこと。2歳の娘は、カンカン照りにもかかわらず、長靴を履こうとしていた。
「靴履いてきてねと先生に言われているよ。雨も降ってないし、靴にして」と私。
その場に居合わせた70代の母は、私の娘に「そうよ。靴履いて。恥ずかしいよ」と言った。
“んん?”
身に覚えのある感覚。(でも違和感をもてた自分を褒めたい。笑)
私は幼い頃から「恥ずかしい」という言葉を頻繁に聞いて育った。この「恥ずかしい」を今日は科学したい。この「恥」の感覚が、多くの日本人の行動パターンに深く根付いているということを意識化し、グローバルマインドを考えるために。
現象:子どもは”恥ずかしくない”
2歳の娘を見てるとはっきりわかることがある。彼女はどこでも大声で歌うし、踊る。一人で喋って踊る。
きっと家系譲り。時々「人の目」を感じて引っ込むけど、恥ずかしくないのだ。
スーパーで泣き喚く子どももそう。不思議な行動を繰り返す子どももそう。
人間、最初は「恥」なんてない。
「恥ずかしい」は、周りが、意味として与える感覚だ。そして、それはネガティブな意味として。
恥の概念は、私も母との間でよく触れてきた言葉。
新しいことに挑戦しようとすると「そんな目立つことするの?自分だったら恥ずかしいさぁ」。親戚の結婚式で踊ろうとすると「恥ずかしがらず、よくやるね」、母に新しいことに挑戦したら?と勧めると「うまくできないと恥ずかしいから、やらない」。
母とは性格が真逆だから、そんなリアクションに耳を塞いできたけど、聞いた回数、実に無限。笑
背景:恥の起源と社会への影響
日本社会における「恥」の概念は、古い。
この記事でも言及したが、「日本は恥の文化」と論じたルーズ・ベネディクトの『菊と刀』にもわかるように、日本の社会は伝統的に「恥」を最高位において、それを避けながら生きる。
罪と罪の意識を問いまくる訴訟大国アメリカとは大違いだ。

個人よりも集団の調和を重視する文化だから、周囲の目を気にすることは自然な反応。
そして、日本社会には、この恥を肯定的に取った「恥じらい」など美化的感覚さえある。
「恥ずかしがってる!かわいい!」という大人(=上から)目線。
「恥ずかしがってるけど、本当は嬉しいんでしょ」という、ややもすればハラスメントになり得る文脈も含めた美(化)的感覚。
時折、そういう感覚がポルノ的な消費になり海外から問題視されるのだけど、その問題意識さえも鈍感…ということは置いておいて、、、。
でも、それほど、恥の感覚は日本の社会に深く根付いている。
そして、この恥の感覚が過度に強化されると、個人の成長や挑戦を阻害する要因になってしまう。
解明:大人から子供への恥の継承
私が冒頭で紹介したような、子どもの行為を「恥ずかしいからやめなさい」という「恥」=ダメなことという概念や、それでしつける風潮は、おそらく年を取れば取るほど、強くなっていく。
かつ、個人が属するコミュニティが、地域や家庭など狭ければ狭いほど強化される。一家の恥、地域の恥を避けるという力学が強まるから。
そして悲しいかな。現代もまだ、日本の都市部は「子を育てた親」へのまなざしがとても厳しく、親はその視線に汲々として、のびのび子育てできない。
という社会課題に直面しているようにも思う。
電車でわんわん泣いている子どもを泣き止ませられない親
本当は経済的に厳しくても、見た感じそうは見えない親子
公園で遊ぶ子どもが他の子と遊んでいても、隣について過干渉的に見守る親
メンタルが弱いと思われないように振る舞う親と子
親は、恥じないように、失敗しないように、と窮屈だ。
「失敗」は「=恥」。
そして、子どもは親をよく見ている。
社会のまなざしに窮屈そうな親を見ながら、干渉されながら、子どもたちは「失敗したら恥ずかしい」を自分のなかにインストールする。
どんなところでも歌い、大声で泣いていたような奔放な子どもが、恥を感じ始めるのは、大人が「周囲に迷惑」と判断して止めさせるという側面もあるが、もう一つ。
「そんなことして恥ずかしい」を持ち出している時もあると気づいた。
親や教師、周囲の大人たちが、子どもの「恥ずかしい」行動を未然に防ぐことによって、子どもは自然と恥の感覚を内面化し、同世代にも広げていく。価値の再生産。
「みんなの前で歌を歌うなんて恥ずかしい」
「失敗したら恥ずかしい」
「人と違うことをするのは恥ずかしい」
出来が悪いと恥ずかしい
この恥ずかしい、はいつ頃から刷り込まれるのか?
やがて3歳になる私の子どもは最近、シャワー後「早く服を着ないと恥ずかしい」と言うようになった。
でもこれはアメリカ人の夫の文化圏からすれば「早く服を着て、自分の体を守ろう」というセルフケア、セルフリスペクトの文脈になるというのに。
始まってる。恥ずかしい、のインストールが…😱
問題の本質:恥の文化を抜け出さないと自己受容できない
私が今回この記事を書いた出発点は、ずっとボヤッと抱いていた「行動やチャレンジが日本社会の弱点なのはわかってるけど、なぜ、そうなってしまうのだろう」という疑問点だった。
挑戦せよ、行動せよ、の号令はずっとかかってるのに。自信をもとう。自己肯定感が大事。みんなわかってるのに進まない…それはなぜか?
そして、この「恥」を洞察したのである。
この「恥の文化」を抜け出せないと、自己受容ができない。ダメな自分もありのままOKの自己受容がないと、挑戦という行動は成り立ちもしないのだ。

具体的影響:恥がもたらす社会的損失
もうとっくに「恥の文化」の弊害は、日本社会に出ているので言うまでも無いが…
1. イノベーションの阻害
恥を恐れる文化は、新しいアイデアや挑戦を阻害する。失敗を恐れるあまり、既存の枠組みの中でしか行動できなくなる。これにより、イノベーションが生まれにくい環境ができた。
2. 経済発展への影響
挑戦を恐れる人々が増えると、経済活動も停滞する。新しいビジネスを始める勇気、新しい技術に挑戦する勇気、新しい市場に参入する勇気が失われることで、経済発展が阻害される。
2020年代、テクノロジーを使ったサービスが生まれ続けるアメリカや、環境・福祉・アートなど独自の文化概念でスタートアップやアップサイクルな活動が生まれるヨーロッパとは大違いの土壌になってしまった。
3. 個人の成長機会の喪失
私が日頃接している習いごとの生徒からも「絶頂期だった昔と比べて、恥ずかしい」を起点にした挫折や、海外に行ったのに「恥ずかしい」と行動を躊躇する体験が見受けられる。
私たちは、恥を恐れることで、多くの貴重な学習機会を逃している。失敗から学ぶ機会、新しいスキルを身につける機会、人間関係を深める機会など、恥を恐れることで失われるものは計り知れない。
10代もすっかり「恥マインド」インストール済みだ。
解決策:恥から子どもを解放しよう
意識的な子育てと教育の重要性
グローバル教育を意識するとき、英語だけじゃダメな理由はここにある。この日本特有の「恥マインド」を可視化して、しっかり意識化し、克服すること。
その上にトライアンドエラーが生まれ、成果が出る。
だから、まずは子供を恥から解放したい。
私は自分が母親になり、その立場で母が発する言葉や周りを見始めた時、いろいろ気づけた。
そんな私は、子どもが何か一人でチャレンジしようとしているとき、砂場で遊んでいるとき、公園の遊具で遊んでいるとき、そこで知らないお友達と関わるとき、あまり関わらない。
転んでも恥ずかしくなんかない。
そこで出会ったお友だちに優しい対応ができなくても、親として恥ずかしくない。
私の放任の対応は、恥ずかしくない。
いろんな場面で、そう自分に言い聞かせている。娘の危険は取り除きながらも、行動の歯止めをかけそうな自分には自分の考えを疑い深く根拠を考える。
子どもの行動や自分の対応を「恥ずかしい」と評価する前に、その行動の意図を熟慮する。
まず大人が意識を変えるのだ。
失敗を恐れない環境作りと個性を尊重する教育
失敗を恐れない環境を作ることで、子供は安心して挑戦できるようになる。失敗は学習の一部であり、成長の機会であることを伝える。
そのために、人と違うことを恥ずかしいと感じさせない教育。個性を尊重し、多様性を認める。そうすることで、子どもはありのままの自分を信じられるようになる。そして挑戦する。
中高生の進路コーチングをしていても思うけど、現在の教育システムは、まだまだ画一的な評価基準に収斂される。多様化してきた幼児教育、小学校制度に比べて、中高に行くと、結局選択肢が狭まり均一的だ。習いごとの現場や教育事業の現場で子どもたちを見ていても、まだまだ変化は遠い。
おわりに:変革への一歩
まずは自分が挑戦すること。「あの人変わったね」と言われようが言われまいが結果がどうであれ、恥なんて蹴飛ばして挑戦すること。
だから最近私は、久しぶりに人前で英語で話すようにチャレンジしてるし、自分や家族の弱みも曝け出すようにしてる。恥を忍んで。
そして目下の他者=子ども、などの行動の結果を予測したとしても、先回りしないこと。
この小さな変化が積み重なることで、少しずつ小さなコミュニティが変わって、より豊かで活力のある社会が実現すると思う。何より恥から解放されることで、個人の幸福度も向上するはず。
なぜなら先ほどさらっと紹介した画像のように、恥は自己否定に直結するから、やめた方がいいのだ。

日本から輩出するグローバルに活躍する人材。英語だけできればいいなら、とっくにもっともっと増えているはずだし、既に世界で活躍している人たちが日本社会をもっと押してくれてるはず。その力学が働いていないのは、人材の問題じゃなくて、社会文化の構造に課題があると考えています。そんな思いの投稿でした。

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