面接官として感じたことを綴るシリーズの、4回目です(毎年、地元沖縄で、ある教育プログラムに参加する高校生を選抜する面接官を請け負っています)。
これまで3回の記事では、
進路につながる関心に「自分の確かなワクワク感」という根っこを持つこと、
対話を止めないための考え方、
社会的な言葉をどう自分の言葉に落とし込むか
について書いてきました。
今回は、高校生の発表を聞きながら思わず考え込んでしまった、そもそも「大学で何を学ぶのか」という意識の話をします。
先にお断りしておきます。今回は、これまでより厳しく聞こえるかもしれません。ただこれは、生徒個人への評価ではなく、日本のアカデミアや先端技術の弱さという構造から逆算した問題提起として書いています。
「コミュニケーション力を身につけたい」は、結果論ではないか
今年の個人発表で、印象に残った動機がありました。
「県外の大学に行きたい。日本各地、異なる場所から来る人たちと出会って、コミュニケーション力を身につけたい」というものです。何名かの生徒が、同じようなことを話していました。
これを聞いたとき、私は二つの気持ちを同時に持ちました。
ひとつは、なるほど、そうだよね、と思う気持ちです。ここは沖縄ですから、県外に出ることは、文化や考え方の違う他者と出会う体験になり得ます。私自身がそうでしたから、その動機はよくわかります。
一方で、少しだけ引っかかる気持ちもありました。
コミュニケーション力は、自分とは異なる他者と向き合う限り、どんな場所でも伸びていきます。アルバイト先でも、部活でも、家庭でも、地域の活動でも。人と関わり、すれ違い、わかり合おうとする。その摩擦の中で育つものです。
大学は、たしかに多様な人と出会える場ではあります。だから結果として、コミュニケーション力が伸びることは大いにあるでしょう。
しかし、それは結果であって、目的ではないのではないか。
大学はアカデミアの場である
「コミュ力を身につけるために大学へ行く」。
おそらく、結構昔からある考え方です。私も高校生の頃は、似たようなことを言っていた気がします。
ただ、日本の大学と海外の大学とでは、アカデミックな場所として期待される役割やレベル感が違うと言われます。
これは、実際に数字にも表れています。
文部科学省・科学技術学術政策研究所の「科学技術指標2025」によれば、人口100万人当たりの修士号取得者数は、日本が602人(2022年度)。同じ指標で、英国は6,057人、米国は2,649人、ドイツは2,430人です。最も少ない中国でさえ655人で、日本を上回っています。
さらに気になるのは、その推移です。2010年度と比較すると、日本は2%の減少。一方で韓国は4%増、その他の国は10%以上増えており、英国にいたっては64%増、中国は164%増となっています。
主要国の中で、日本だけが増えていない。
もちろん、修士号の数がすべてではありません。ただ、この数字が示しているのは、日本において「大学を出たら、学問はそこで終わり」という感覚が、どれほど当たり前になっているかということだと思うのです。
大学は、学問の入り口です。しかし日本では、入り口に入ることそのものが目的化してしまっている。
AIが登場し、言葉の力を根幹から変え、知識そのものの価値も変わっていく時代です。
そんな中で、コミュニケーション力をつけるための大学、なのだろうか。私はそこで立ち止まってしまったのです。
大学進学は、目的ではなく手段です。
学びや知識が好きなら、自分はアカデミックに何を学びたいのかを見据えて、大学を選んでほしい。
特に、こうした教育プログラムの選抜に挑戦してくるような生徒であれば、関心のある分野を、複数でもいいので挙げてほしかった。たとえその関心が後で変わっても構いませんし、ひとつに決まっていなくてもいいのです。学問の側から大学を考えている、という手触りがほしかった。
大学全入時代と言われる今だからこそ、大学はアカデミアの場である、というステータスを期待し続けたいと思っています。
もし、コミュニケーション力を上げるために大学へ行く、という考えでいるならば、もう一歩踏み込んで、アカデミアの意味を考えてみてほしいのです。
「苦手を埋めるために」という発想
もうひとつ、気になった言葉があります。
大学を「苦手を克服する場所」と捉えている生徒です。自分にはこれが足りない、だからそれを補うために学ぶ、という発想です。
真面目さの表れだと思います。自分の弱点を自覚し、それを埋めようとする姿勢は、決して悪いものではありません。
ただ、私はここでも立ち止まってしまいました。
苦手を埋めるという発想は、高校生までで十分ではないでしょうか。
大学には、学部や専攻というものが付きものです。ひとつの学問の世界に飛び込んでいく場所に、苦手を埋める発想で向かうのだろうか、と不思議に思いました。
もちろん、それが有効な時代もありました。しかし、これだけAIが定型的な処理を引き受けていく時代に、「苦手をなくして、平均的に何でもできる人」を目指すのか。この先どうなっていくのだろうと、思いに耽ってしまいました。
「苦手を埋める」と話した生徒が、自分の内側にある「強み」に気づき、そこから学びを深めていける未来を願っています。
その動機は、どこから来たのか
念のため書いておきますが、「コミュ力を身につけたい」「苦手を埋めたい」という動機を、否定したいわけではありません。
これらは、生徒たちが真剣に考えた結果、出てきた言葉です。
ただ、コミュ力は上げたほうがいい、苦手は埋めたほうがいい。そうした社会が用意した課題が動機となって大学進学を考えるとき、学問への関心という、大学本来の入り口が抜け落ちてしまいます。
もし、わが子が「コミュ力を上げたいから、この大学に行きたい」と言ったなら、私は「お母さんとガッツリ議論しようよ」と返してしまうかもしれません(笑)。あるいは、言語プログラムやディベートへの参加を勧めるかもしれません。
そして、こう聞くと思います。
「コミュ力を上げて、その先で何がしたいの?」 「どういう場面で、コミュ力が足りないと感じたの?」 「あなたにとっての『コミュ力がある人』って、どんな人?」
こうして問いを重ねていくと、その奥にある本当の関心が見えてくることがあります。
そして大学進学を目指すからこそ、大学での深い学びの価値を、あらためて捉え直してほしいと思うのです。
「苦手を埋めたい」の下にあるもの
「苦手を埋めたい」という動機も、同じように掘れます。
「その苦手を克服したら、何ができるようになりたいの?」 「そもそも、なんでそれを苦手だと思うようになったの?」 「逆に、時間を忘れて夢中になれることは何?」
最後の問いが、実はいちばん大事かもしれません。
苦手にばかり目が向いている子が、その状態のまま選んだ専攻は、その人の資産になりにくい。
埋めるべき欠落を数えるより、伸ばすべき芽を見つけるほうが、アカデミックはその子の血肉となり、未来はずっと開けていくはずです。そこまでセットしたうえで、大学進学の門を叩いてほしいと思います。
親の役割は、課題を与えることではない
「大学に行ったら、いろんな人と出会えるよ。そこで視野が広がる」
「大学では一般教養を学ぶから、その苦手も克服できる」
どちらも、確かに事実です。しかしそれは、アカデミアの入り口ではありません。社会生活で誰もがぶつかる、共通の課題にすぎません。
大学進学にとって大切なのは、子どもが口にした関心を入り口として、その奥へ一緒に深く降りていくことです。
「なぜ、それを?」 「その先に、何がある?」 「本当は、何がしたい?」
進路の動機は、最初から立派である必要はありません。
ただ、その関心をしっかり深掘りしておいて初めて、大学での専攻の学びが実となり、どんな社会になっても「自分が身につけたコア」を、形を変えながら生かしていける人生になるのだと思います。
【データ出典】 文部科学省 科学技術・学術政策研究所「科学技術指標2025」(中央教育審議会大学分科会大学院部会 参考資料、令和7年12月8日) https://www.mext.go.jp/content/20251208-mxt_daigakuc01-000046207_07.pdf
