先日、Threadsに投稿した「異文化コミュニケーション、異文化衝突」が垣間見えるエピソードについて、ENCOUNTさんに取材いただき、配信されました。Yahoo!ニュースにも掲載されています。
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Threadsにも書きましたが、改めて思いを整理してみます。私も本業メディアの一員として、思いを込めて取材を受けました。
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Yahoo!のライフカテゴリ1位、コメントも1位と、多くの方に注目され、議論が起きたことを嬉しく思います。コメント欄での議論を受けて、今日はそのアンサー記事として、私の考えを言葉にしてみます。

まず事実として
手洗い場に「用途外の使い方をやめるよう呼びかける外国語の張り紙」などはありませんでした。
そして、洗濯してた人に対する私の考えは「使いたい人が他にいる状態じゃないなら、やっちゃうのも、まぁ仕方ない」です。
昔の私なら、このエピソードの中学生たちのように「ダメなことはダメなんだ」と教えなければと思っていたかもしれません。
しかし大人になって、取材経験や何より国際結婚を通じて、自分の価値観を揺るがされてきました。
端的にいうと今は合理主義的な考え方です。
そこにあるもの=手洗い場はリソースであり、使いたいなら使う。使いたい人がいるなら譲り合う。そうでないなら使えている人が自由に使う。摩擦が生じるならコミュニケーションで解決すればいい、と考えています。
そしてその日は、もし彼女たちが何かを伝えたいと思っているのであれば、その伝え方を工夫するという視点を少し伝えた程度です。
私は彼女たちに「これが見本だ」と教える立場にはありません。
中学生の集団はある程度、人数がいて、しっかり話し合っている空気感があったので、まず第一印象として関わろうとしている姿勢にとても感心しました。
ただ、伝わらなかったことで諦めたり壁を作ったりするのは勿体無い。なにか学びにできれば、と思い、「伝え方をこれくらいオーバーに変えてみて」ということを、私の視点から言えばいいかなと思っただけです。
この事象を深く考えると
でも、この出来事を一歩深く考えると、実にいろいろ思うことがあります。
1つ目:抽象的な概念としての「ダメ」
「日本ではこれはダメじゃないか」というのが、とても抽象的な概念だということです。日本社会の行動規範的な形で語られていますが、別にそういう法律や憲法の条文が存在するわけではありません。その感覚は至ってイメージによるものです。
2つ目:義務感への懸念
「これが良くないことだから伝えないといけない」という義務感に対する懸念があります。
ぶっちゃけ、他者は他者です。あの空間には特に、一つのルールや行動規範に縛られないといけないという項目はありません。彼女たちの「教えなきゃ」という義務感は、学校や親、メディアなど、何かしら社会の装置で刷り込まれた感覚だということです。
彼女たちの今はあれで良い。ただ、いつか時代が変わった時、あるいは自分が一定の文化規範の外に出た時、きっと揺るがされるものなんだろうなと思いながら観察していました。
コロナの衝撃で、生活様式や今までの概念がひっくり返されたのと一緒です。常識はずっと常識じゃない。異文化という横の広がりでなく、時代という系譜で見ても。
3つ目 外国人じゃなかったら?
もし洗濯しているのが30-40代の女性で子どもと一緒にいたら?同世代の男の子で仲間の水着も代表して洗っているようだったら?どういう視線と言葉を交わすでしょうか?
4つ目 関わりか、干渉か。母性性的な感覚?
彼女たちの中にもこの事象に関心を示していない、ただその場に居合わせているように見受けられた人もいました。全員が全員で塊となって、洗濯をする女性の行為に一定の問題視の視線を向けていたわけではありません。
でも、過度にどうにかしようと動いている数名の学生たちの心の中は、何がそうさせているのかなとは思いました。
優しさなのか、干渉なのか?この疑問が浮かぶということは実に、女の子を育てながら母親という役割をどう生きるか模索している私への反射の問いでもあります。
最近は特に過保護や過干渉について考えることが多く、ややもすれば、こういう「教えてあげなきゃいけない」感覚が過保護や過干渉の種になるのかなという疑問を持ちながら…
私がその洗濯をしている女性のもとへ行って、一緒に注意をして手本を示すべき、というYahoo!コメントもありました。
ただ「こうしたらいいんだよ」と示さなかったのは、中学生で人数もいて私も見ているけれど、そこに危険がないと大いに判断できているから、問いのみを投げたのです。私がやって示すなんて、昔の私ならしたかもしれませんが、今はしません。
改めて考えてみると
改めて考えても、あの時の光景は、焦点化されるポイントが多く、それに呼応するかのようなコメントの数と種類。すごくいろんな視点があって面白いなと思います。
異文化コミュニケーションの視点で言えば、記事に書かれている通りです。伝わらないなら伝え方を考えるべし。この出来事は、彼女たちの人生の中の一つの点。その後の異文化体験によって「伝え方の種類も様々にあるんだ」ということが線になり、後々知れたらラッキーだね、という程度です。
こんな大きな地球で、人類の数、国の数、自分の周りの人とも自分は全然違うなって思うこともあるのに、自分の感覚が伝わらないことはよくあること。家族でさえそうです。
その壮大で冷めた割り切りの上で、それでもその壁を越えていくのが人間社会の面白いところだなと思っています。
しかし、どちらかというと私の最近の関心は、私たちが当たり前にもってる義務感やルール崇拝などの感覚や母性的な価値観、行動規範にあります。
私は過度なルールなどいらないと思ってます。機能せず形骸化するか、パターナリズムを助長して変化の芽を摘むだけだから。
今回のように考え、話し合えるだけで、集合体・コミュニティとしては平和だなぁと感謝しながら。
この記事も書きました!

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